清学院

清学院
清学院不動堂

清学院

清学院は、元禄2年(1689)『堺大絵図』に「山伏清学院」の名で記されるなど、修験道の道場としての歴史を持っています。
また、江戸時代後期から明治初期にかけては寺子屋「清光堂」としても使われていました。

現在の北旅籠町で生まれ、日本人で初めてヒマラヤ山脈を越えてチベットに入った河口慧海もここで学んでいました。
建物は江戸時代後期に建築され、歴史文化資源として貴重であることから、平成14年(2002)に国の登録有形文化財となりました。

河口慧海

河口慧海は慶応2年(1866)堺山伏町(現:堺区北旅籠町西3丁)に生まれました。
数え年6歳で寺子屋「清光堂」で学び、明治5年(1872)の学制公布後は県学第七区分校(のちの錦西小学校)に入学しますが、12歳で家業の桶樽製造業に従事するため退学します。

退学後も勉強を続け、土屋鳳洲が主宰する晩晴書院に通い、漢学などを学びました。

明治21年(1888)には上京し、哲学館(東洋大学の前身)に通います。25歳の時に、得度し黄檗宗の僧侶となりますが、漢訳仏典の限界を感じ、明治30年(1897)厳重な鎖国体制下のチベットを目指します。

ネパールを経て明治33年(1900)ヒマラヤの峠を越えてチベット西部に入り、翌年にはチベットの都ラサに日本人で初めて到達しました。
この第1回旅行は6年近くにおよび、仏教についての研鑽と、チベットの風俗や生活習慣、風習など様々な見分を深めます。帰国後はその旅行談が新聞に掲載され、後には『西蔵旅行記』として刊行されました。

明治37年(1904)には再びチベットへ旅立ち、10年近く、インド、ネパール、チベットで過ごします。
帰国後の慧海は、2度にわたる旅行で収集した資料を駆使して、多くの書物や記事を執筆するとともに、各地で講演をして仏教の正しい理解と普及に努めました。

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アクセス

〒590-0928 大阪府堺市堺区北旅籠町西1丁3-13


阪堺電気軌道阪堺線「高須神社」停留場より西へ300メートル
南海本線「七道(しちどう)」駅より東へ300メートル
南海バス「堺東駅前」から、16 系統・17 系統(北循環線)「堺駅西口」行きもしくは 61系統(堺東住之江線)「住之江公園駅前」行きで、「綾の町電停前」停留所より北へ 350 メートル
※「山口家住宅」との間の距離は約620メートルです。

※駐車場はありませんので公共交通機関をご利用ください。なお、鉄炮鍛冶屋敷に障害者用駐車場があります。